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憤りを覚える『誤爆』という言葉

NATO Airstrike Kills Afghan Civilians -NY Times(February 22, 2010)

『誤爆』という言葉には義憤を感じる。誤爆という言葉は殺戮の残酷な具体性を隠蔽する。

An airstrike by United States Special Forces helicopters against what international troops believed to be a group of insurgents ended up killing as many as 27 civilians in the worst such case since at least September, Afghan officials said.

アメリカ空軍による空爆が、またしても多くの民間人の犠牲者を生んだ。軍の司令官は『誤爆』という言葉を用い、遺憾の意を表明する。そして言い訳のようにその都度軍による『調査』が行なわれる。何度も繰り返されてきたことだ。アフガン大統領府は「弁解の余地はない」と誤爆を強く非難したが、それは至極当然だ。犠牲者を生む『誤爆』があまりにも頻発している。

憤りを覚えるのは、こうして空爆が犠牲者を生んだときに『誤爆』という言葉が用いられることだ。言うまでもなく爆撃が破壊する対象は建造物だけではない。そこに存在した人間の肉体を、爆風が、火炎が、衝撃が、ことごとく粉砕してその生命を奪う。一帯には血が流れ、破壊された人身が拡散する。しかし『誤爆』という言葉は、こういった殺戮の残酷な具体性を隠蔽する。いったいあの司令官は何を遺憾としたのだろう。各々の生命活動は無に返され、阿鼻叫喚の地獄絵図の中、命の尊厳は、犠牲者数という統計によって返上される。しかしアメリカ軍はこの殺戮を誤爆とアナウンスし続けている。『誤爆』という言葉は、他の多くの事実をもまた覆い隠す。犠牲となった民間人がそれぞれに営んできた生活、人間関係、絶望する家族・・・そういった具体的なファクトすらもだ。